柳生真吾との思い出

柳生真吾は、まるで生き物の代弁者のようでした。

幼い頃に、茨城の田舎に住む祖父母に預けられ、そこで夢中になって生き物と戯れた時間。それが彼の原点となっていきました。父親が役者であることが影響しイジメられていた小学生の頃、八ヶ岳の森に連れてこられた途端、彼は時間を忘れるほど家族と自然の中での作業に没頭しました。その経験は彼を生き生きと別人のように変えてくれたのです。

彼は大学の農学部に進学し、生産農家に就職したあと結婚して子供を授かります。「子どもは僕ら夫婦だけで育てるよりも、八ヶ岳と山の仲間にも育ててもらおう!」と八ヶ岳へ移住を決めます。彼のそばには、いつも自然の生き物たちとの生活がありました。それは、植物のみならず、昆虫や動物たちにも及び、それらを知れば知るほど楽しくワクワクする気持ちや、癒されていく喜びを周りの皆に伝えてくれていました。それは、メディアを通しても発信されるようになり、NHK「趣味の園芸」のキャスターを8年間務め、園芸の楽しさを全国の幅広い年齢の人々へ広めていきました。

不思議なのは、彼の手にかかると地味な植物や生き物でも、すべて魅力的に見えてくるのです。47歳で他界してしまいましたが、彼の言葉や本からのメッセージは、今も人々の心に残り続け、語りかけてきます。

略歴

1968年東京都生まれ。
10歳の頃から山梨県北杜市の八ヶ岳南麓に通い、父である俳優の柳生博と雑木林を作り始める。

玉川大学農学部卒業後、花の生産農家の田辺ナーセリーで3年間園芸を修行。
89年7月から雑木林を中心としたギャラリー&レストラン八ヶ岳倶楽部を運営する。

2000年よりNHK趣味の園芸のメインキャスターを8年間勤めた。
ラジオ、講演、連載執筆等活動は多岐に渡った。
著書は「柳生真吾の八ヶ岳だより」(NHK出版)「柳生真吾の家族の里山園芸」(講談社)「男のガーデニング入門」(角川書店)など。

柳生真吾との思い出話

「兄、柳生真吾について」
兄はオシャレで、器用で、センスの良い人でした。八ヶ岳倶楽部には多肉植物や草屋根や焚き火鉢などがありますが、それは兄のセンスの賜物だと思います。NHK「趣味の園芸」 のキャスターをしていた兄は、ガーデニングという形で、倶楽部にも新風を巻き起こしました。僕は兄とは性格が正反対で、不器用で、いい加減な所があります。年も離れていることもあり、若いころはあまり親しくありませんでした。でも、不思議なことにお互いに仕事に慣れてくる30代、40代には朝まで二人で飲むこともあるようになりました。 兄が最初の癌から回復した時、僕はマラソンにはまっていました。そして、兄も興味があるといい、一緒に石垣島マラソンを走りました。そのころから兄は、僕のゴーイングマイウェイの生き方が気になっていたように思います。 そして僕がシンガポールに単身赴任していた時に、兄は遊びに来てくれて、一緒にカンボジアに行きました。兄は地雷博物館をみたいと言いました。カンボジア内戦後に、アキラという偽名を使ったカンボジア人が地雷除去の活動を始めた場所を、どうしてもみておきたいというのです。命を削って人のために尽くすという生き方に感銘を受けていたようです。 それ以前の2011年にも、東日本大震災の復興のシンボルとして、スイセンの球根を植える活動をしていました。兄の晩年は、どこか理想主義を目指すところがあったと思います。無意識に限られた命をなんのために捧げるかを模索していたように、僕は感じていました。 正直にいうと、僕のようにいい加減なところがあったら、もっと長生き出来たのではないかと思います。そして、兄と1年でも良かったので、一緒に仕事が出来たら良かったのにと思います。 性格が違っていても、兄が思うこと、自分が思うことはお互い分かっていたような気がします。なので、今でも悩んでいるときは、兄だったらどうしたかなと考えます。そうやって今も兄と対話しているのかもしれません。
柳生宗助
初めて真吾さんと会った時感じたのは、その育ちの良さ。ゆったりと深い息使いをしていた25才の青年でした。彼は八ヶ岳で子供を育てたい!と春に東京から引っ越して来て、私はその秋に倶楽部に入社しました。真吾さんとは、八ヶ岳倶楽部の運営をしっかり成り立たせていくために、二人で頻繁に打ち合わせを繰り返し、どんどん変革していきました。彼は私より8才も年下で、レストラン経験も少なかったのですが、センスのある良く考えられた彼のアイディアには多々感心させられました。大学は農学部を卒業し、花の生産農家で3年修行した真吾さん。現在植物コーナーがある中庭に、レストランのテラス席があった頃は彼にホール担当をお願いしていました。レストラン業務を行いながら、まわりにある木々や野草のお話をお客様と出来るからです。植物に関しても知識豊富で分かりやすく穏やかな彼の説明と接客は、すぐにNHKの方の目に止まり、「趣味の園芸」のキャスターに大抜擢されました。そしてあっと言う間にスターになってしまいました!彼は最初に会った時から志が非常に高く、そして情の深い人でした。私が八ヶ岳に引っ越し、知り合いもいなく心細かった頃。夫妻で自宅に度々招いてくれ、私の山暮らしを応援してくれました。ある日私が自宅の庭に炉を作っていると聞きつけ、仕事を放って駆けつけて手伝ってくれました。完成後に一緒に乾杯したビールは、人生観を変える美味しい一杯でした。誰をも全力で応援したからこそ、たくさんの方々に愛されたのだと思います。
長年の仲間
清洲裕雄
「花の仕事をしていて本当に良かったと思うのは、世界中の人と喜びを分かちあえるから。 世代を超えて、国境を越えて、立場を超えて、色々な人とつながれることがうれしい。」 この言葉通り、花を通じて大勢の方とつながった方でした。園芸家として多肉植物や寄せ植えを好んでいましたが、それ以上に八ケ岳の自然をより好んでいたような気もします。趣味の園芸では「八ケ岳だより」というコーナーで得意の写真を使って八ケ岳を紹介していたことがあり、普段は通り過ぎてしまうような素朴な草花も、真吾さんにかかると魅力的なものに見えたのが、特に印象的でした。
真吾の植物を
今も世話する
山田幸司
真吾さんのことは、倶楽部に来る前は知らなかったし、最初は遠い存在でした。ちゃんと話したのは、レストランの喫茶担当だった時に、喫茶の作業カウンターのリノベーションのデザインを任された時でした。その時に、真吾さんの倶楽部に対する熱い思いのようなものに触れました。 そして、喫茶メニューでもっともっと工夫して美味しいものをお客様に提供できないか、デザートメニューの開発をよろしく頼むと言われたことが、今の私に繋がるお菓子作りの始まりでした。試作ものに対しての評価の時は、ママさんと似てシビアでしたが、よく出来たものの提案の時には、とても褒めてくれることがものすごく嬉しくて、私の大きなモチベーションになりました。 真吾さんは、「出る杭は打たれる、じゃなくて、出る杭は出ていい!みんなが個性だして出っ張って出っ張って全部が丸くなればいい!」とよく皆んなに言っていました。アイディアマンでもあったし、みんなを先導する力もありました。 それに、いわゆる、カッコイイ!という人でした。いや本当は、“カッコイイ”の鎧を着ていたようにも思います。私たちスタッフには、もうちょっと弱さを見せて欲しかったな、真吾さん!私は真吾さんが亡くなる数週間前に、病院に会いに行かせてもらいました。病人なのにあっけらかんと迎えてくれた真吾さんが忘れられません。
共に熱く倶楽部を支えた
窪島麻衣
真吾兄と私
真吾兄は植物に対してもなんでも趣味が良くて、楽しむことの天才で、他人には情が深い人でした。でもお外の人にカッコつけてる部分も多かったので、家族に対しては気を遣わずにぶっきらぼうで無愛想な一面があって、特に私は妹という弱い(?)立場もあって、叱られたり文句言われることもしばしば。結局仲が良いのか悪いのか、どちらだったんだか、よく分かりません(笑) そんなでも、真吾兄の闘病の時期には精一杯のサポートをしました。(私は、柳生家の人たちの闘病のサポートが一つの役目のようです。)その頃私は東京に住んでいたので、東京の病院に通ったり入院したりする兄が、望むことをできるだけ叶えてあげようと頑張ったものです。 闘病中であろうと、真吾兄は楽しむことを色々見つけていました。出かけられる時には家族で出かけて、本人がやりたいと思うことを一緒に楽しみました。外食したり、神社にお参りに行ったり、映画を見に行ったり、家ではウクレレを弾いていたり、味がわからないのに凝った料理を家族に振舞ったり。それまでも、遊び心を忘れないで輝いている自分をモットーに仕事をしていたので、家族としてはそれを優先してあげることを不満に思う時もありましたが、兄は無意識下で自分の命の短さを感じていて、目一杯人生を楽しむ方向で生きていたのかもしれないと今は思います。 倶楽部には、真吾兄の足跡が色々なところにまだまだ息づいています。青く塗られたガーデンチェア、赤い扉、草屋根、ギャラリーの内装や桂の広場の小屋など。「真吾さんが、ここをこんな風に素敵にしたいって言ってた」とか「こんな風にしたら喜ぶだろうね」とか、未だにスタッフの間でも会話に出てきます。「雑木林はテーマパークだ!」という本まで出して、この森をいつもワクワクしながら歩き、それを発信していた真吾兄。自分自身が一番ワクワクしていること、楽しんでいること、遊び心を忘れないでまず自分が輝いていることが、一番大事な秘訣なんだって、倶楽部を歩く私やスタッフたちへ、今も語りかけてきているように思います。
義妹
柳生直子

柳生真吾の八ヶ岳みどり通信アーカイブ

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