柳生博との思い出

「確かな未来は、懐かしい風景の中にある」

39歳の時にNHKの朝ドラでブレイクしてから、遅咲きの俳優として世間の脚光を浴び出した柳生博。テレビを中心に、俳優や司会、ナレーションなど多忙な生活を送っていた柳生は、一方で自分の時間や家族と過ごす時間を失い、徐々に自身のバランスを崩していきます。

そんな生活に危機感を感じた彼は、昔、13歳の時に訪れた八ヶ岳南麓に居を構え、ひたすら木を植え、木を切り、森を作っていく生活を始めます。自身のバランスを取るため、自然あふれる八ヶ岳にもう一つの生活の拠点を置いたのです。東京での俳優業を行いながら、隙を見つけては八ヶ岳に通い、森作りに没頭しました。

そして彼の作ってきた森は、いつしか木漏れ陽が溢れ風が渡っていく美しい森となっていったのです。その美しい森に店舗を建て、「八ヶ岳倶楽部」と命名しました。自然と人間の文化が共存する場所を作りたいと誕生したその店は、今や大勢の人々が訪れ、癒される場所となっています。

彼自身の言葉「人と自然の仲のいい風景」、そして「確かな未来は、懐かしい風景の中にある」。長年、日本野鳥の会の会長も務めた彼は、その言葉を八ヶ岳で体現し、現代に生きる世の人々に訴えかけていくのが、使命だったのかもしれません。

略歴

1937年1月7日、茨城県生まれ。2022年4月16日没。

土浦第一高校から東京商船大学(現東京海洋大学)に進学後、視力の低下により船長への道を断念し大学を中退する。
その後、ジェームズ・ディーンに憧れ、俳優座養成所に入所。俳優としての人生を歩み出す。

1961年、今井正監督の東映映画「あれが港の灯(ひ)だ」でデビュー。
1977年、NHK朝のテレビ小説「いちばん星」の野口雨情役で一躍脚光を浴びる。
その後、NHK「生きもの地球紀行」やテレビ朝日「クイズハンター」などの出演、ナレーション、司会で活躍。
1976年から山梨県北杜市の八ヶ岳南麓に居を構える。
1989年、自らが作った雑木林にレストラン、ギャラリーなどを併設するパブリックスペース「八ヶ岳倶楽部」をオープンする。
近年は(公財)日本野鳥の会名誉会長、コウノトリファンクラブの会長を務めた

活動歴

【TV】
朝のテレビ小説「いちばん星」野口雨情役 / NHK
「すばらしい味の世界」ナビゲーター / テレビ東京
「Do サタデー」司会 / 関西テレビ
「飛び出せ青春」教頭役 / 日本テレビ
「クイズハンター」司会 / テレビ朝日
「生きもの地球紀行」出演およびナレーション / NHK
「平成教育委員会」レギュラー回答者 / フジテレビ
「NNN ドキュメント」ナレーション / 日本テレビ
「情報 The フライデー」 / TBS

【CM】
ニコン メガネフレーム
ハウス食品「デリッシュカレー」「特選わさび」「六甲のおいしい水」
小林製薬
パンアメリカン航空
東京海上火災
コムスン
興和「キューピーコーワゴールド」
ACジャパン(公共広告機構)

【著書】
八ヶ岳倶楽部「森と暮らす、森に学ぶ」 / 講談社
八ヶ岳倶楽部Ⅱ「それからの森」 / 講談社
「風景を作る人 柳生博」 / 辰巳出版
「じぃじの森」 / 清流出版

【役職】
日本野鳥の会 名誉会長
コウノトリ ファンクラブ会長
八ヶ岳倶楽部オーナー

柳生博との思い出話

「父、柳生博について」
次男だった自分は、会社を辞めて八ヶ岳倶楽部に来るまで、基本的に父のいるところを避けるようにしていました。子供っぽいと思われるでしょうが、あまりにも存在感が強いので、自分が行なった出来事なのか、父の影響で行なったことなのかが見えなくなってしまうからです。父はそのことをつまらなく思っていたと思います。 それでも、父のフィールドの広さと深さをいつも尊敬していました。父は語ることが大好きな人でした。八ヶ岳のこと、野鳥の会のこと、家族のこと、芸能界の仕事のこと、日本のこと、ニュースやスポーツも大好きでした。朝まで話そうとするので、どうやって切り上げるか、苦労したものです。 父が語る言葉はいつもポジティブでした。そして、若者のことをいつも褒めていました。どんなに悲しいニュースがあっても、「大谷翔平みたいな若者が生まれる日本はすごい」と信じていました。 そんな楽観的でスケールの大きい父だったからこそ、八ヶ岳倶楽部が出来たのだと思います。倶楽部を創って、八ヶ岳の良さを伝えたことが父の一番の功績だと僕は思います。 晩年、父は免許を自主返納して、慣れない列車で東京を往復するのを楽しみにしていました。切符の買い方や乗り換えの仕方を覚えようとしていた矢先に、コロナが始まり、楽しみは実現できませんでした。いろんな場所へ行き、誰とでも笑顔で、大きな声で、お酒を交えて語るのが大好きだった父には、その状況は辛かったと思います。 今はマスクなどせずに、先に旅立った友人や家族たちと、空の上で楽しく語っているのだと思います。倶楽部を肴にして。
次男
柳生宗助
私は八ヶ岳倶楽部がオープンして4年目のゴールデンウィークに短期バイトとして初めて働きに来ました。そのころのパパは、有名人なのに奢らず、一若者の言葉を受け止めてくれる度量がある人でした。オープンして時間が経つのに、お店の運営は仕事意識もシステムも全くもって未熟な状態でした。都会でプロとしてサービス業の仕事をしていた自分に、柳生夫妻から「一緒にやろう!清洲みたいな人が欲しい!」と口説かれ、散々悩んだ末に入社したのは1993年10月。レストラン変革の為に厳しく指導する私へ戸惑うスタッフが多い中、柳生さんはいつでも私のことを擁護してくれました。自分もこの人の為ならみんなから嫌われてもいいと思える、そんな良い関係が築かれ、かわいがってもらいました。柳生さんと過ごした日々で、私は人生観が変わったと思います。自分だけでなくお客様もスタッフも、そういう方々は沢山おられるのではないでしょうか。人生観が変わるお店というのは、なかなか無いと思います。柳生さんが魂込めて作り上げて来た八ヶ岳倶楽部を歴史に残るお店にしたい!という気持ちが私のモチベーションとなりました。柳生さんは、60歳になったらわがままジジイになってやる!と予告していたのが、残念なことに本当にそうなってしまいました…スタッフが充実して安心したのかもしれませんが、我々まわりの者は本当に苦労が増えました。2014年から、柳生さんのマネージャーの仕事をしていましたが、晩年は物忘れや話の脱線やら、フォローが大変でした。しかし、カメラが回ると往年の仕事スイッチが入るのは流石でした!それは亡くなる3週間前の仕事でもそうでした。最後の講演会となった東京からの帰り道、高速道路の事故渋滞に巻き込まれて車の中で10時間足止めされました。柳生さんは私が用意していた赤ワインを飲みながら大谷翔平選手の深夜の再放送を観てご機嫌で、お喋りしながら夜が開けるまで二人で過ごしました。今となっては柳生さんとの最後の楽しい思い出となっています。幼少期に自然豊かな奈良の田舎で育った私は、自分の原風景を無意識に求めて、八ヶ岳に住むようになったのかもしれません。それから28年以上・・本当に色々有りましたが、柳生さんは私にとって紛れもなく大恩人です。
倶楽部創立間もない頃からのスタッフ
清洲裕雄
「いつの間にかこういう立派な林になっちゃったんだよ。俺は手入れをして、きっかけをつくっただけ」。自然への畏敬の念をこめてパパさんはよくこう言っていました。 多様性を求めて低木や下草に光があたることを意識し、森の作業後には必ず「どうだい、いい塩梅に光が差し込んできただろう」とビール片手に語るのがお決まりのパターン。そのおかげで、自分の職場ながら倶楽部の風景は本当に美しいとこれまでに何度も思いました。たくさんの方が楽しんでくれている風景がまた良いですね。そんなことを言うと、「本当かよ!お前が言うとなんか嘘っぽいな」と返されそうですが・・・。
植物繋がりのスタッフ
山田幸司
パパに会ったのは、大学生の時。 「パパとお茶をしよう。」パパはいつも新しいスタッフが入ると、そうゆう時間を設けてくれていました。就職活動のことや海外に行った時の話などを色々聞いてもらい、こうやって自分のことに耳を傾けてくれる人がいるって幸せなことだな、と感じたのを覚えています。 大学生活で悶々としていた自分にとって、こんな風に社会的に大成している大人に接してもらうことも初めてだったし、スタッフも熱い人が多くて、活気に満ちた場所に面食らうと同時に魅力を感じました。その後、アルバイトを経て社員になりました。 パパがこの場所を作らなければ、今の自分は居ません。 ここで繋がった人間関係は今も大切な関係となっています。 パパが歳をとってきて、少し立場が逆転し、こちらが話を聞く方になりがちになりました。 酔っ払ったパパの長〜い話を聞くのが、正直嫌に思ったこともありました(笑) でも、晩年のパパは、私のツッコミも受け容れて許容してくれるようになっていました。 パパはなんやかかんや言って、愛されキャラでした。お酒が入ってオンの時のパパはおどけていて、オフの時のパパは物静か。そのギャップも面白かった。 パパは、木を切り剪定して森作りをし、スタッフと深く語りあい、この八ヶ岳倶楽部をまさに自分の手で作ってきました。私はぎりぎりのタイミングでその現役バリバリの姿を見ることが出来ました。 パパとお茶する中で、私のことを「おまえは、人として大切な感覚を持って育ち、いい環境で育ってきた。それを育ちがいいというんだよ。」と、とても褒めてくれたこと。それは、いまでも私の心の支えになっています。
一番長い付き合いの女子スタッフ
窪島麻衣
「お前は、俺の娘だ」 この言葉を私は何度言われてきたことでしょう。 23歳の時、「森と暮らす 森に学ぶ」というお父様の本を友人に紹介されて読んだ時に、「西沢の森の中に入った時、タヌキやテン程の、すっと小さくなって、けれども程よい重みの、本来の自分の姿になった、、」というようなことが書いてある一節があり、その言葉に深い共感を覚えた私は、大海の中に一つの道しるべを見つけたような思いがしました。そして八ヶ岳倶楽部を訪れました。 だから義父は、事あるごとに、「直子は俺に惚れて来たんだ」と言います。 結婚して柳生家に入って、両親と同居して生活していくうちに、あまりにも濃い関係性の生活の中で、私は気がつけば柳生家の真っ芯に居ました。子供を3人育てながら、八ヶ岳倶楽部や義父母の助けになるようなことを一生懸命にやってきました。そのうちに、上記の「俺の娘」発言が頻繁に出てくるようになりました。 義父とは、表面上はよく意見がぶつかったり、喧嘩して私がプチ家出したりするのに(笑)、それでもこの八ヶ岳倶楽部の森の生き物たちのことを深く大切に想う気持ちを共有していたからこそ、根底で深く繋がっていて、喧嘩してもまたすぐに日常を共にするという普通の義理の親子では有りえないような関係性がありました。 最期の時間も、誰よりも本人の側にいた私は、義父が他界してもまだ付き合いが続いているような感じがしています。八ヶ岳倶楽部の創業者である柳生博の想いを礎にして、これからどんな倶楽部の運営をしていこうか、本人は目に見えないけれど、まだどこかで交流しているのかもしれません。 涙が出たのは、義父の他界後木の剪定をし始めた時だけ。できる限り一緒にやってきた、どの枝を残してどの枝を切ろうかということを、心の中で相談しながらやっている自分に気がつきました。私はこれからも時々義父に問いかけ相談しながらやっていくのでしょう。そうやってこの森を大切に守り、人間にとっても動植物にとっても、八ヶ岳倶楽部が益々心地のいい、優しい場所であり続けるよう、頑張っていきたいと思います。
義娘
柳生直子
柳生博の他界後、パパの思いを形に残そうと、森の中に石碑を建立しました。「人と自然の仲のいい風景 八ヶ岳倶楽部  木たちに、鳥たちに、スタッフたちに、また会いに来て下さい。パパこと柳生博」とパパの直筆の文字を石に彫りました。「石は変化しない。俺の想像を超えている。想像できないからいいんだ。だから石は宝ものなんだ。」「赤岳の圧力を石が受け止めているんだ」なんて言っていたパパにぴったりの大きな石。ほぼ永遠に、この八ヶ岳倶楽部を森の中から見守り続けてもらいたいと願いを込めて…。

著書

柳生真吾との思い出